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2023/7/23 ヨハネの福音書9章13-17節「それで今は見えるのです」

先週からヨハネ九章に読んでいます。先天的に目の見えない人を癒すに先立ってイエスは「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです」と言いました。この言葉は多くの障害者や、自分の罪悪感や因果応報と言われて苦しむ方々を解放しました。しかしそこにいた人々は、一緒に喜び祝うよりも困惑するのです。癒されて良かったねぇ、気分はどうだい?と喜ぶより、ザワザワし始める。そして彼を連れて行くのです。

13人々は、前に目の見えなかったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。

宗教の権威、パリサイ人たちの所に連れて行く。理由の一つは、元々、生まれつきの盲目を、本人か両親の罪のせいだと言っていたのですから、宗教的な対処を考えたのでしょうか。その後ろめたさもあったかもしれません。自分たちの考える正義とか神の御心というカッチリした説明が引っ繰り返されてしまったのです。パリサイ派のところに連れて行き、判断を仰いだということでしょう。ところが、ここで今まで出てこなかった問題が生じます。

14イエスが泥を作って彼の目を開けたのは、安息日であった。[i]

ユダヤ社会で土曜日は安息日で、すべての労働を止め、聖別する、という規定は今でも重んじられます[ii]。労働は禁止、食事はOKだけれど料理はダメ、生死に関わる医療はOKで不要不急でなければNG、歩くことも何キロ以内、と細かく決めた。それが仇になる。

15こういうわけで再び、パリサイ人たちも、どのようにして見えるようになったのか、彼に尋ねた。彼は、「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです」と答えた。」

この泥を作って塗るが労働行為だ、と非難されます。

16すると、パリサイ人のうちのある者たちは、「その人は安息日を守らないのだから、神のもとから来た者ではない」と言った。…[iii]

見えない目が開かれたことより、その時に泥を作った、塗った、安息日を守っていない、という問題を取り沙汰する。直ぐ後の22節で

…すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた

とあり、既にイエスの反対は濃厚でした。これが安息日でなかったとしても彼らは別の難癖を捜したでしょう。ですが、ここでは最初から安息日の細則違反が明らかでした。イエスは安息日に唾を吐き、泥をこねて、この人の目に塗った。安息日を破った。そこを問題視できたのです。しかしそれはそれで解決にはなりません。

「…ほかの者たちは「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができるだろうか」と言った。そして、彼らの間に分裂が生じた。」

「安息日を守らないのだから罪人だ」「いや罪人だったらこんなことは出来まい」。堂々巡りで挙げ句の果てが17節です。

17そこで、彼らは再び、目の見えなかった人に言った。「おまえは、あの人についてどう思うか。あの人に目を開けてもらったのだから。」彼は「あの方は預言者です」と答えた。

自分たちの所に連れてこられたのに、意見をまとめられず分裂したからと「おまえはどう思うのか」だなんて、無責任というか、盥回しというか…。分裂の解決を、この人に押しつける形です[iv]。しかし、このプレッシャーでも彼は言います。今までよりも更に踏み込んで、

「預言者です」

と。神が遣わした預言者は[v]神の言葉を語るだけでなく、奇蹟や癒やしを行うこともありました[vi]。罪人かどうか、よりずっと踏み込んだ発言です[vii]。この折角の答なのに、パリサイ人は聞かなきゃよかったとばかりに、聞き流そうとします。どころか、

18ユダヤ人たちはこの人について、目が見えなかったのに見えるようになったことを信じず、…

と頑固です。

この話の流れは九章終わりまで続きます。ここで浮き彫りになっていくのは、見えなかった目が見えるようになった、という奇蹟ではなく、見えると思っている人は肝心なことが見えていないです、という事実なのです[viii]。「自分は分かっている」「聖書や神の御心を知り、何が罪で、キリストや預言者とはどんな人でどんな人ではないか、自分は分かっている」と思っている人が分かっていない――その事が今日の13~17節でも、既に明らかになり始めています。イエスが目を開けたしるしを見ても、イエスが神から来た方だと心を開くより、安息日規定という神の言葉を振り翳して、イエスを否定する。どんな奇蹟や、その恵みに与って変えられた人の証言も、見ようとしない。そしてそれは、このパリサイ人たちだけの問題で私たちにとっては他人事――でなく、まさに私たちへの深く鋭い問いかけです[ix]

彼らはイエスを「安息日を守らないのだから、神のもとから来た者ではない」と言いました。それは外れていました。そもそも安息日は、その規定を人間が守るかどうか、一切仕事をせず、神のためだけに過ごしているか、という人間側の規定ではありません。神が世界を六日間かけて創造され、七日目には休まれ、祝福された、その恵みに預かることです。世界は私たちの働きにかかっているのではなく、神御自身の力強い恵みの上にあること、そこに立ち戻って、また六日間の働きに出ていくのが安息日です。しかし、人間は神から離れた時、自分たちが神のように働いたり、他の人を奴隷にして働かせ、休み無く動くような世界にしてしまいました。だからその奴隷世界から主はイスラエルの民を解放し、贖いだしてくださいました。この、創造と贖い、二つの恵みに立ち帰るのが安息日なのです。神は働いておられるのです。

4世紀のアウグスティヌスは、その後の教会の信仰に大きな影響を与えた神学者ですが、若い頃は放蕩の限りを尽くした人です。母はその息子を案じましたが、アウグスティヌスはますます母の手から逃れようと離れて行きます。遂に、彼が都ローマに行こうとすると、母は「大都会のローマになんか行ったら息子は救いようなく堕落するに違いない」と必死に止めようとし、必死に祈ります。しかしその祈りは聞かれず、息子は母を出し抜いてローマに行ってしまいます。母は悲しみにくれますが、そのローマ行を通して、アウグスティヌスは優れた説教者のアンブロシウスに出会うことになり、やがて回心に至るのです。敬虔な母の目には絶望と思えたローマ行に主は働いてくださいました。主はどこにも働いておられます。

イエスがこの人を癒されたこと、それもわざわざ物議を醸すような安息日に癒したことは、まさに神の創造と贖いの業です。私たちが、罪の報いで不幸なのだと決めつけてきた人、罪人、不信者、主の日を大事にしない人、まだイエスを信じていない人にも、イエスはそれぞれに働きます。人には出来ないことをしてくれます[x]。その主の回復・解放のみわざを、聖書の言葉を盾にとって、ケチをつけるのは人間の目の暗さです。もしかしたら、それはこのパリサイ人たちのように、それ以前から、私たちが心のうちに抱えていた敵意とか傷とか恨みがあってのことでもあるでしょう。ならば、その痛みを主によって癒していただき、その傷を通して神のみわざが現されることを祈り求めましょう。自分自身のうちに深い安息をいただきましょう。

私たちは一人一人、主の掟を守ること、むしろ、主の掟に守られることが欠かせません。なぜなら、私たちはまだまだ目の見えていない者、生涯、福音を必要とする者だからです。この安息日こそ、神が創造主であり贖い主でいてくださる――昨日までの六日間も世界の隅々に働いておられ、目を凝らせば神の御業があること、耳を傾ける価値のある御業があることを覚える日です。そしてその神は、一人一人に違う関わり方をされます。まだ信じていない人にも光を与えられます。それは、その人を愛するから、そして、私たちをも愛して、私たちが陥りやすい傲慢や、凝り固まった誤りを気づかせるためです。

その深く惜しみない愛のゆえに、私たちも神から離れていた時に救われたのです。それを思い出させるような御業は、私が「罪人」と言ってきた人にも現されています。

主がこの世界の一人一人に働き、光を下さることを期待して、これからの六日間へと遣わされるのです。主が私たちの目を開いてくださいますように。

「造り主であり贖い主なる父よ。あなたの下さる癒し、安息、全人的な救いに立ち戻るため、今日も私たちは今ここにいます。この恵みさえ、自分の業だと誇り、人を裁く道具にしかない、目の暗い私たちです。どうか私たちの目を開いてください。主の惜しみない恵みを見て謙り、同じ憐れみを戴いている幸いを深く思わせてください。この一週間も、そんな出会いを与え、それを気づき心から尊ぶ私たちとして成長させ、そうしてあなたの御業を現してください」

[i] 「目を開ける」の開けるアノイゴーは、ヨハネに11回(1章51節、9章10節、14、17、21、26、30、32、10章3節、21節、11章37節)、目オフサルモスは、18回(4章35節、6章5節、9章6節、10-11節、14-15節、17節、21節、30節、32節、10章21節、11章37節、41節、12章40節、17章1節)

[ii] 出エジプト記20章、申命記5章、二つの「十戒」を参照。

[iii] 以前5章でイエスが寝たきりの人を癒した時も、癒したことより寝床を畳んで片付けさせたことをパリサイ人たちは非難しました。ここでも同じです。

[iv] 分裂スキスマ マタイ、マルコに一度ずつ、ヨハネとⅠコリントに三回ずつ。7章34節、9章16節、10章19節。

[v] 未来を告げる「予言」でなく、言葉を預かる「預言」ですが

[vi] モーセ(出エジプト記から民数記)、エリヤ(Ⅰ列王記17章以降)、エリシャ(Ⅱ列王記2章以降)など。

[vii] 「預言者」4章19節でサマリヤ人の女も途中で告白した認識です。ですから、イエスが預言者である、というのは最終的には不十分であるとしても、途中においては十分な告白です。

[viii] 最後41節のイエスの言葉、「…もしあなたがたが盲目であったら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」という厳しい指摘に至ります。

[ix] 司祭であり、教授であり、説教者であり、作家でもあるバーバラ・ブラウン・テイラーは、この物語に登場するパリサイ人たちは、罪深さを根絶しようと永遠に追い求めるあまり、より大きな罪を犯したと言う。  彼女は、この物語は私たちが考えるべき非常に重要な問題を指摘していると言う。 もしそれが神でなくて、私は神だと信じていたらどうしよう』ではなく、『もしそれが神で、私は神でないと信じていたらどうしよう』。  神は日曜日には働かないこと、モーセは神の唯一の代弁者であること、生まれつき目が見えない者は罪人でなければならないこと、安息日を破る者も同様であること、神は罪人を通しては働かないこと、神は罪人の上には働かないこと、さらに誰も自分たちに何も教えることはできないこと、などなど。(バーバラ・ブラウン・テイラー、『クリスチャン・センチュリー』(1996年3月6日号)p.260) DeepLによる翻訳。 https://sermonwriter.com/sermons/new-testament-john-91-41-spiritual-blindness-bedingfield/

[x] 「初代教会の信仰と実践は、この若い女子大生たちの20分で完了するような救いよりも、ルカ14章のイエスに沿ったものだったのだ。現在私たちが過ごしている四旬節は、伝統的に洗礼の準備期間であった。クリスチャンになる者たちは、40日間、試験、学習、祈り、断食に明け暮れ、ついに洗礼の水に入るのである。洗礼志願者たちは、ただ単にiに点を打ち、tに線を引き、永遠の天罰から自分を救うために正しい項目にチェックを入れるのではなく、新しい生き方、新しいあり方を始めるのだと知っていた。古いものは消え、新しいものがやってくる。「改宗」、キリストにおける新しい生活、弟子入り、私たちがそれを何と呼ぼうとも、初代教会では40日間の準備が必要だった。バーバラ・ブラウン・テイラーは20分かかった。それでも彼女は変わった。それでも、キリストはその中にいた。バーバラ・ブラウン・テイラーのシンプルかつ雄弁な言葉を借りれば、「私はふざけていたかもしれないが、イエスはそうではなかった。私の心はそこになかったかもしれないが、イエスの心はそこにあった。バーバラ・ブラウン・テイラーも、この生まれながらの盲人も、イエスに邪魔された。どちらの場合も、イエスとの最初の出会いを求めたわけではない。彼はバーバラ・ブラウン・テイラーの寮の部屋のドアを押し破って入ってきた。彼は男の目に唾と泥を塗りつけ、次の瞬間、二人はすべてを見たのではなく、何かを見たのだ。何か新しいものを。バーバラ・ブラウン・テイラーはその後、司祭、教授、ベストセラー作家となり、タイム誌の「2014年最も影響力のある100人」に選ばれた。生まれつきの盲人は、肉となった神であるイエス・キリストを、生涯盲目であったその目で見ることになり、そこから弟子となった。間違いなく、キリストがどのように私たちに手を差し伸べ、出会い、私たちの目に触れ、私たちに視力を与えてくださったのか、私たち全員がその物語を分かち合うとしたら、それらはすべて異なるだろう。しかし、それらはすべて有効である。あなたの物語は有効だ。生まれつきの盲人やバーバラ・ブラウン・テイラーのように、もし私たちが自分の物語を分かち合うとしたら、それがどのように起こったかについてはほとんど語らず、単に何が起こったかについて多くを語るだろう。私たちはこうだった。私たちは彼に来るように頼み、彼は来た。自分の人生について、キリストについて、私たちは知らないことがたくさんある。私たちには見えないことがたくさんある。それでいいんだ。」DeepLによる翻訳。引用は、Barbara Brown Taylor (Louisville: Westminster John Knox Press, 2010), 121.より。https://www.grantparkchurch.com/sermons/seeinginthedark